副標題:現われ˙翻訳˙パルタージュ
*註:
partage(パルタージュ)とはフランス語で「おすそわけ」という意味です。

一、思考日本語文學的意義--越境言語論
二、思考日本語文學的意義--表現詩學
三、閱讀日本語文学--シリン・ネザマフィと楊逸

*註:シリン・ネザマフィ:(Shirin Nezammafi, 1979年11月10日 - )は、イラン・テヘラン出身で日本の大阪府に在住している在日イラン人の女性小説家である。ペルシャ語を母語とするが、日本語で小説を執筆している。
楊逸:(やん いー,1964.6.18-),原名劉莜,旅日中國小說家,出生於黑龍江省哈爾濱市。2007年,她憑處女作《小王》(ワンちゃん)在第105屆文學界新人賞獲獎及第138屆芥川獎提名;2008年則憑《浸著時光的早晨》(時が滲む朝)一書獲得第139屆芥川獎。她是首位獲得芥川獎的中國籍人士,也是首位不以日語為母語而獲得日本文學獎的作家。

中心概念:等號的想像力=日本 (再配置)

一、思考日本語文学的意義--越境言語論
  (一) 越境-->國境線。日本語的出走。

˙「非母語作品」的釋疑:1、書寫語  2、作家國籍、居住地  3、讀者國境、居住地。
˙エクソフォニー(Exophony / Exophonie):ドイツ語で「母語の外に出た状態」を意味します。
˙エクソフォニー和「別の感性」:掌握歷史的特殊角度,其感覺觸腳得以捕捉到魔幻事物,並匯入文學語言中。
   其積極面--冒險的發想; 無差別的語言,於語言之外的理想境。
   其消極面--是誰能夠擁有日本語?  諸語言皆非對照。(普遍語、國語、地域語)
  是誰擁有日本語? 言語習得的必要條件--> 日本語作家的高學歷、時間、金錢、能力、理想境的日本語文學觀的消極面(誰不能擁有日本語)

  (二)日本語的所有權:不是「能不能」,而是「所有權」問題。

二、思考日本語文學的意義--表現詩學
  (一)公共圈と現われ
  公共圈(the space of appearance)不僅於其公共性,而是指涉人的行為、言論互動創生出的空間。
     「私が他者に対して現われ他者が私に対して表われる空間」である。(H˙アーレント 人間の条件)
  可看作為一個他者開始的空間,他者自由存在者所在之空間,無關乎其他條件。   
     小說則將這個公共圈轉型為非私人化、非個人化,像影子般的種類之存在。最一般的轉型是出發自個人經驗的物語作品。
 
  (二)公共性與私性、親密性
    「この」性不等於「特殊性」,姑且可用單獨性(singularity)稱之。
    ˙這類文學兼具私與公共特性,是維持公與私間變換的途徑。
 
   (三)翻譯論的進程
     所謂的現代的日本語文學是?
     現代の日本語文学とは、公と私をつなぎながら、同時に見慣れた文化と異質な文化とを出会わせる’二重の道路’である。
   ˙翻譯是本質上的雜種化。文化翻譯與雜種化,可視作為共時的交流與鬥爭。

三、結語
  (一)日本語文學的現代變化:語言的自立/游離的強調。
  (二)帶入「別の感性」存在的日本語文學作家=翻譯者亦如是。   
  (三)公的空間再現的調整機能。
  (四)依循藝術的再分割=共有(パルタージュ)  
       共同体における共同なものの感性的な裁断、その可視性および編成の諸形式のレヴェル(level)においてこそ...。

四、再思考
  (一)文學的公共空間的複數性強化。
  (二)文學是公共圈與親密圈的聯繫、結合。
  (三)文學是關於公共圈、親密圈,私領域等的感性及想像之聯合。  

附記:言語 ≠ 國籍 ≠ 出身 ≠ 居住地。 -->現代文學的分類問題、日本社會今後的構成問題。

˙演講討論作品有:
A、シリン・ネザマフィ的「白い紙/サラム」(「イラン・イラク戦争下での若者を描いた青春小説」)
   イラン・イラク戦争下で、首都テヘランからイラクとの国境に近い田舎町にやってきた(父が戦争医師として最前線の病院に派遣されたので)女子高校生の「私」が、同級生のハサンという成績優秀な男子生徒に淡い恋心を抱き、信仰深くもないのにモスクに通ったり、突然の空爆に慄いたりする「戦時下」の日々を過ごしながら、何も書かれていない「白い紙」のような未来に思いを馳せる、というような小説である。

B、楊逸「金魚生活」
   金魚の世話が好きな中国人女性、玉玲(ユイリン)。嫁いだ娘を日本に訪ねると、日本人男性との再婚を勧められて…。
中国の東北部、とあるレストランに勤める林玉玲(リン・ユイリン)はある日、店の金魚の世話を店長から頼まれる。古来中国では、金魚(ジンユ)は金余(ジンユ)――金が余ること――と発音が同じため、人々に親しまれてきた。ある年、夫を事故で亡くした玉玲は、日本に嫁いだ娘・珊々(シャンシャン)の出産にあわせ、来日することに。言葉も分からず右往左往する玉玲に、娘は日本人との再婚を勧める。言葉の壁を突き破る、感動の恋愛ストーリーです。

之前沒有唸過在日外國人的日本語文學,但是這個演講讓我想起華文文學的概念,又勾起對一件新事物「定義」時的煩躁了。
在原初「日本語文學」範疇的框架下,竟然又可衍生出不同的文學類屬,奇妙!
在日比老師的演講引文中,多和田葉子特別說明這種日本語文學是有別於被迫使用日語寫作的殖民地文學,
是屬於自發性的使用日本語,別於母語的向外創作。

演講中「越境」、「翻譯」也是很重要的關鍵字,謹記。

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